心も民営化|自由意思は無い

 種子も水道も民営化なわけですが、心は元々民営化されていたのかも知れません。他者の心の中へ入りたいとも思いませんし入られたくもありませんし、自分で自分の心の中へ入るのも何だか恐ろしい。ところが人は、何かを売りたい、自分を売り込みたい、何かを手に入れたい、、、で、ひとの心の中に入り込みます。様々な手法を使い入り込みます。そして人は気づけば何かを信じ込んでいます。何を信じれば良いかにも答えは無いと思いますが、自分を信じなければ生きて行けないかも知れません。ですが、これも生き物が故の呪縛かも知れません。心の中まで浸食するのは止めにしたい。各方面の情報工作が折り重なり不安が募ります。パワハラな社会。何を信じるかは自由なはず。それを他者へ刷り込み始めると途端に不自由な事となる。たった一人の価値観も多数な価値観も同じ。多数だから少数だから何だという事は無い。それぞれだ。それが"自由"であり、その空間が"公共"であり、その空間を維持するのが"民主主義"かな。 と言っても、これも今私が思っているだけの事で何だという事は無いです。