「情報場が先にあって、物理場はその写像にすぎない」

苫米地英人 著「認知科学への招待」を読んで、著者の他の著書の背景が分かるように思いました。
私の感想:
脳は脳を理解しようとし、それを記述し、外部化するのはなぜだろう。その事で便利になって行くが身体にとっては良い事ばかりでも無い。
脳を100%外部化できた時の世界はどんなだろう。何事も完全は無いらしいので100%の外部化は無いとすると、僅かに何かが残るという事だろうか。
僅かに分からない部分が残る世界はどんなだろう。それが情報の非対称〜ビッグバンみたいな?
超情報場は物理場を使って何をしているのだろう。グリッドコンピューティングのような事をしている?
超情報場とは脳そのものだったりする?
身体にしても、その身体が造る建築物にしても今の物理場は何かおもちゃのようにも感じるが、これも自分だけの現実か。
完全ー意識=現実
以下はこの著書の気に成る言葉の引用です。

  • 「意識」というのは。抽象度の階段を上がったり、下がったりする現象のこと
  • 情報場が先にあって、物理場はその写像にすぎない
  • 情報場にしか存在しないものもありうる
  • 小説上の存在はすべて情報場だけの存在
  • 人間の数だけ現実がある
  • 人間の数だけ次元がある
  • 人によってリアリティは違います
  • 人は何とかして他人と現実を共有しようとします
  • 超情報場を共有していることの結果が臨場感
  • ホメオスタシスによって、私たちは超情報場の情報を共有できているかもしれません

認知科学への招待 苫米地 英人